手が合わない

 先日、対談をしてきた。純文系の作家さんときちんとお話をするのは初めて。手が合わないんじゃないかなー、と担当さんや、先に来ていたライターさんにこぼしていたのだけれど、予想通りだった。ぼくがいるエンタメ側は直木賞というベルトを目指す純プロレス。対談相手さんはまさにブンガク畑で芥川賞というベルトを目指す総合格闘技orMMA。同じリングを使っているけれどやっていることが違うという点が、ぼくとその作家さんの業界内での関係に似ている。でもって、この対談は異種格闘技戦みたいなもので、どっちかの土俵に上がってしまえばよかったものの、中途半端に終わる。異種格闘技戦ってそういうものでしょ? 

 ロープに振っても走ってくれなかったからなあ。スイングしなかった。リング上で笑いが起こるのもナシなのかもしれない。純文系の人にとって、きっとインタビューで言質を取られることはまずいんだろうな。言葉に重きを置いているだろうから。そりゃあ小説を書く人間は誰しも言葉を大切にしているものだろうけれど、ぼくが今いるのは純プロレスだから。展開つまり物語が大切だと思うから。アングルが決まっていようとも、魅せるのがプロレスだろう。アングルのない総合格闘技とちょいと違う。また、客を意識しての純プロレスは外へ開いているのだけれど、総合格闘技のほうが閉じているよなあ。ストイックに強さを自分の内に求める。その分、ナルシスティックになるというかさ。それはそれでかっこいいわけよ。新日のレスラーたちだって、60億分の1の男ヒョードルやほかのMMAファイターたちが持つ強さには、複雑な憧憬があるわけでさ。プロレスがいちばんスゲェーんだよ、とは言えるが、いちばん強いとは言ってないわけでさ。
 ま、ナルシスィックにはなれないが、プロレスには美学があるからさ。美学に殉じてという書き手は、エンタメ側のほうが多い気がする。