『空気人形』

 是枝監督の『空気人形』を見てきた。刃物でぐっさりシーンはぼくがもっとも苦手としている映像なので、かなりへこんだ。ペ・ドゥナのヌードは美しい。さすがモデルあがり。
 映画の宣伝で、ダッチワイフ(その表現がダメならダッチドールとか)と使わないのはいかん気が。普通の女の子だったら、ダッチワイフとしてヤラれている彼女を見ただけで引くのでは。「大人のラブ・ファンタジー」なんてとんでもないですよ。
 今回、吉野弘の「生命は」の詩から多分にインスパイアされての映画だというのはよくわかる。

「生命は」

生命は
自分自身で完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思えることさも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光りをまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

 映画ではダッチワイフのペ・ドゥナも誰かのための風だった、と孤独な老人やOLや過食症の女の子たちの生活に、なんらかの変化をもたらしたことが描かれているけれど、わかりづらいよねえ。詩の「風」とダッチワイフを膨らませる「空気」をイメージとして引き合わせているんだけど。
 凄惨なシーンを盛り込まなければ、描けない映画だったのだろうか。心を持ったダッチワイフのイノセンスを描くことは必要だったのだろうか。闇を描かなければ光は描けないけどさ。