テントウムシ

 今日は『レディ・バード』を見てきた。

 十八、九歳のころの、大切でいとおしいものだとわかっているのに鬱陶しくてしかたなかったり、なんかもっと最高の自分になれる気がしているのに地面を転がりまわりたくなるくらいみじめだったりする、あの感覚をまるっと入れてあって素晴らしかった。監督は女優もやっているグレタ・ガーウィグ。まだ三十代前半。だから、ビビッドにその年代の女の子を描けたのかも。というか、見た誰もが思う。あれは監督の高校時代だ、と。

 ぼくはちょっと遠くへ来てしまったな、と正直思った。三十代前半だったら、もっとビビッドに自分を重ね合わせ、恥ずかしくなったり打ちのめされたりしたのかもしれない。ぼくはだいぶ大人になってしまった。肩書きも手に入れて、小説家だとわかると相手は勝手に距離を取る。ぼくかどうかではなく、その肩書きで判断する。それはこちらとしては楽なことだ。勝手にフィルターをかけて値踏みしてくれるのだから。でも、そのおかげでぼくは十代のころのようなふがいなさやみじめさに直面することはなくなった。大人になった分、違うみじめさはつきまとうけれど。

 とりとめもなく思い返す。夏合宿でなぜかウエガキとフジタ君と同じ部屋になり、ウエガキが楽しそうに、自慢げに夢精したことを真っ暗な部屋で語っていたのに、なかったことになっていたこと。LÄ-PPISCHの読み方がわからなくてフジタ君とヨシムラに笑われたこと。菅旅館でなぜかニッシーに肩を揉まれ、「凝っているというよりなんかおまえの肩おかしいな」と言われたこと。ミウラヒロコがお母さんから「彼のどこが好きなのか」と聞かれ、どこが好きなのか答えられなくて好きじゃない気がしてきた、なんて言い出したこと。自暴自棄になって高松の池に飛びこんだら体が臭くなったこと。

 ともかく、『レディ・バード』はそういった十代のありふれたあれやこれやだけを詰め込んでいて、自分を思い出して身悶えする映画となっている。もちろん、母と娘のストーリーとして秀逸なのは言うまでもない。ぼくが好きなのは母親がレディ・バードを叱っているとき、父親がこっそりパソコンでソリティアをやっていて、見つかって母親にどやされるところ。あるよね、そういうリアリティ。