『レ・ミゼラブル』

 苦手だー、と書いた女性から〈気が向いたら地元飲みしませんか〉と誘いをもらった。むかしから思うのだけれど、苦手な人から悪くない印象を持たれることが多い。苦手と思いながらも興味を抱いて飲みに行ってしまってのちのち面倒になる、というのが大学生のころからのパターン。もう40歳なのでやめようと思う。巻き込まれ、時間が奪われ、なんていう日々にグッバイだ。NO MORE 時間泥棒。ということで返事を送っておいた。
〈気が向いたらご連絡差し上げます〉
 悪い人じゃないんだけれどねえ。どうも苦手なんだよなあ。自分語りをする人なのもダメなのかもねえ。容姿についても「ルーシー・リューに似ている」とか「常盤貴子を三回くらい殴った顔」とかと言うが、ルーシー・リューなんて黒髪以外全部違うし、三回じゃ済まないよ。

 この人のツイッターの発言が嫌いなのかと思っていたのだけれど、またまったく違う問題としてツイッターが嫌いになってきたんだな、と気づいた。ネットが普及していつの間にか「繋がることが善」ってことになっている。でも、本当にそうか? ぼくが大学生のころ、携帯もなかったしパソコンもなかった。雪に降り込められた夜は寂しかった。地方だから夜中にテレビはやっていないし、ラジオは持っていなかった。本を読んでいた。おかげでたくさんのいとしい夜があった。
 人の作った情報が流れていくばかりのネットという空間は、結局は同じ情報の同義反復でしかない。人が作った情報はどこまで行っても人が作った情報。そうした世界に浸りきっていては新しい概念のようなものは生まれないんじゃないだろうか。トートロジーに満ちた世界を遮断して、たとえば盛岡にいたときのように雪が降る外の世界に耳をすませながら、自分が生きている世界ってどんなもんなんだろう、どう生きていったらいいんだろう、と全身で世界を感じ、受け止めないと、自分だけの新しい可能性というやつは見えてこないんだと思う。ネットは世界を変える一助となっても、ネットの中からは世界を変えるものは生まれない。たぶん。

 あ、まったく関係ないけれど『レ・ミゼラブル』見てきた。アン・ハサウェイが巨乳になっていて、しかも母親役でびびる。映画館で働いていたころ、『プリティ・プリンセス』を上映したけれど、時は経ったのね。