適切に怒る

 同業者の女性の後輩がいて、その人は幼いときにワイセツのイタズラをされたそうなのだ。典型的な男性嫌悪の大人になった。でも、いともたやすく体の関係にはなるらしい。つまり、体の関係になるその理由が男性側の性欲であることが嫌いなために、中間をすっ飛ばしてまずは抱き合ってしまうというものらしい。性欲でにじり寄ってこられることの嫌悪を感じる前に、そういう関係になってしまうわけだ。あの子に触れてみたい、でも断られるかも、みたいな恋愛初期が我慢ならないらしい。「魂胆はなに?」と白黒つけたくなるのだろう。

 そんなだから男性に対していちいち厳しい。あの男はダメだ、あんなのはクズだ、男とはこうあるべきだ、とまるでご意見番のようになっている。ぼくはどんなジャンルの表現でもご意見番と批評家にだけはなっては駄目だと思っている。とたんにつまらなくなるから。

 不憫なことはわかっている。幼少期のトラウマで男性をまったく信じていないのだ。そして、ロリコン親父に触られたことも、自分が悪いと思っている。これは性的なイタズラをされた女性が抱いてしまう思考パターンらしく、みんな一様に口をそろえて言うのだ。「触られるような自分が悪いんじゃないか」と。その後輩は先々月もお偉い作家先生に、飲み会の別れ際に抱きつかれたらしい。酔ってムラムラしただけだと男性側からは思うのだけれど、その後輩は自分が誘うようなモーションをしたのだろうかと内罰的に考えてしまう。不憫だ。

 もちろん、男性が悪いことはわかっている。幼少期にイタズラをされた女性たちも、大人になるに従って相手が悪いと怒りを覚えるようになる。そうしたときに適切に怒れないのだ。抑圧され、内罰的になった分、過剰な怒りになってしまうんだろう。だから、その後輩は常にありもしない理想的な男性像を描き、崇め、現実の男性に唾を吐きかける。はっきり言って、男性であるぼくは身につまされるし、眼に余る男性嫌悪は食事も酒もまずくする。いっしょにいて楽しくないのだ。それでも慕ってくれるから会うのだけれど。

 いやなことをされたら、適切に怒る。このまっとうな反応って難しいのかもしれない。理不尽に踏みにじられた人間は耐える。そこから不憫は始まっているのかもしれない。