遠くなく

 連日、火事のニュースが流れるアスクルはぼくが関越自動車道を使って実家に帰るときにその前を通っている。へえ、こんなところにアスクルがあるんだ、なんてのんきに思っていた場所があれほどの火事に。

 先日、谷口ジローさんが亡くなった。アトリエがうちのワンコがヤングだった頃の散歩コースあたりにあると聞いていて、いつかばったり出会えるんじゃないかなんて考えていたけれど。

 九州のとある文学賞を受賞された秋田の女性が、うちのすぐ近くにある居酒屋で飲んでいたそうだ。犬の散歩仲間からラインが来た。「変な人だったよ」とのこと。そうなんだよ、この人種はいかんのよ。ぼくはなるべく業界から距離をおきたい。メインストリームなんて真っ平ごめん。結局その業界のしきたりなんかに付き合わされることになる。

 まあ、先人やその業界の人々の言わんとしていることはわからないわけでもない。たとえば、うまくなるためにはとにかく枚数を書け。文化系の業界かと思いきや、実はその真髄は体育会系といっしょ。たしかにそうなんだ。たくさん書かないとうまくならない。多産はそれだけでも才能とされる。ソープへ行けの北方センセーなんて人を招いてパーティーをやってみんなが寝静まったあと自分も酒を飲んでいたのに書き始めるという。一枚でもいいから書くんだとか。でもってデビューさせてくれた出版社に売り上げで恩返しをしろ、なんていうバイアスもある。書かない人間やうまくならない人間は肩身が狭くなっていく。それはどんな業界もいっしょかもしれないけれど。

 でも、ぼくは書きたいときに書きたいように書く。プロに徹しろという意見なんて屁にも思わない。ぼくはぼくのやりたいことを自由にやりたいからこの仕事をやっている。業界や一部の通のウケを狙ったもの、しきたりに則って書かれたものなんて面白くもなんともない。
 たとえば、出版社は作家に書いてもらうために、一編原稿用紙40枚程度の短編を月刊誌で書いてもらい、そらが七編くらい集まったら本にしている。もうこの形式がすでに読み物としてつまらないものをたくさん生み出す背景になっている。続き物の長編で書いてもらうパターンはもちろんある。でも、この同じテーマで七本ほどを集めて一冊という形、結局そのテーマを借り物としかせず、物語が浅瀬で終わってしまう。モチーフとなったものの周辺をなんとなくいい雰囲気で描いて終わる。それがものすごく上手い人もいるのだけれど。

 うまく言えないんだけどさ、新日本プロレスがプロモーターや上で絵図を描いているやつらのおかげでたしかにいまは客が入っているわけだけどさ、そんなアメプロみたいにストーリーありき、プッシュされているやつが優遇されるようなプロレスなんて面白くないんだよ。客を沸かすためにやっているプロレスなんて面白くない。そうした筋書きの中でも「こいつには負けたくねえ」「ぶっ殺してやる」ってやつが感じられないとつまらないの。ストーリーの中でのレスラーの裁量が生かされないプロレスなんて駄目だ。自由がないプロレスなんて。傲慢でもコンプレックスでもいいから、そいつの根っこを見せてみろよ。

 そういうことを小説にも思うの。客を沸かすためにプロレスやってんなよって。